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2010年6月9日号 No.187

『あはき心理学入門』へのいざない


新たな地平、あはき心理学

~『あはき心理学入門』収載「巻頭言にかえて」より~

明治国際医療大学名誉教授 丹澤章八

  

『あはき心理学入門』(ヒューマンワールド刊)より転載

虚往実帰

あはき心理学入門(監修:丹澤章八、編著:あはき心理学研究会) 本堂の欄間に懸かる[虚往実帰]と書かれた額に目が留まりました。久しぶりに先祖の菩提寺に詣で、ご本尊の大日如来に手を合わせ、ご住職の読経を聞き終わって合唱の手を膝に納め、程ほどの緊張から開放された参詣者の呼気の一塊が、スーッと流れる時間の隙間に、薄暗い内陣から明るさを求めてゆっくり視線を天井に移す途中でのことでした。

 [虚実]は教場では日常的な身近な語彙・話柄ですが、それ以外の場で見聞きすると身内に出会ったような親近感を覚える傍ら、その使われ方や、よって語られる意味はどんなものかと大変興味を覚えます。法談の席ではありましたが、僭越を承知でこの四文字の意味をお尋ねしました。ご住職は、

 「人は、悩み、迷い尽きると己を見失い、うつろ(虚)になって拠りどころを求めて仏の家を訪れる(往)。そこで無辺広大な仏の慈悲に触れると-仏の慈愛を説き、法爾(ほうじ)の力を分け与える仏家のお務めにより-、内なる仏性に目覚め自らを取り戻し、現世をたくましく生きる-生かされる-力(実)を得て娑婆に戻る(帰)」と、お寺がそこにある意義・役割を通して仏法の功徳を説諭したものだと説かれました。この四文字-法語-と、額がこの場に懸かる意味とを含めて、しっかりと腑に落ちるご説明でした。 

 虚実の解釈はさまざまですが、語意は「虚はもともと虚空のことであり、虚の逆は実で、虚と実は、物事に内容が有るか無いかということであった」(『岩波哲学・思想辞典』)とある受け取り方が一般的でしょう。

 医学に援用されると、伝統医学では総じて[気]の多寡と消長、つまりその欠乏と衰退状態を虚、充実と旺盛状態(時に横溢)を実とし、その趨勢を判別して個体の生命力を推し量る尺度とする解釈が、臨床上の通念であることはご存知のとおりです。したがって、[虚往実帰]の実践の場を、お寺から医療機関に移してもこの法語の語意は通ずるものと納得を重ねたのです。

実往虚帰

 その日は一片の雲もなく、あまねく視界はピーンと張り詰めた冬の冷気が満ちていました。墓前に香を献ずる道すがら望む八ヶ岳の峰々に載る白銀は、昼下がりの陽光を浴びてキラキラ輝いていました。そんな非日常的な場の、無垢な自然の気を浴びている中で湧いた一念の行き先は、普段と違い集中して、いま見、聞きした[虚往実帰]に向かっていました。

 「さてと、現実問題として、医療機関を訪ねてくる患者さんの心身状態、特にこころのあり様は、果たしてうつろ(虚)だろうかどうだろうか」「現象としては病感-患い感-や悩みで一杯になった見えない荷を担いで、重たげな足を運んでくるのが患者さんであり、実感としては患者さんの心身の中身は実そのものといえるのではないだろうか。仏法の隠喩としての[虚往実帰]を医療の場に置き換えると、一端は納得したものの、意味的には虚実の位置を逆にして[実往虚帰]にしたほうが臨床的には実証味があるといえそうだ」

 本堂に戻り、庫裏の暖かい温もりに気も打ち解けたところで、こんな思案をご住職にお話ししてみました。

 話の舞台を変えます。

 私の医療面接の授業では、学生達が教室に持ち込むリュックの中で最も大きく重そうなものに目をつけ、ちょっと借用して教壇に登ります。そして、そのリュックを背負い、患者さん役を一人芝居よろしく演じながら講義を始めます。リュック(実際には不可視のものとして)には、患者さんが抱えている愁訴や悩みが一杯入っていることを想定してもらい、まずは教壇上に仮想で設えた治療院の入り口のドアを開けて待合室に入ります。

 この段階で、医療という場は、患者さんにとって-少なくとも新患の患者さんにとって-は非日常的な場、大げさに言うと異文化の場であることを詳しく説明して十分認識させます。そしてその後は、担いできたリュックの処理の行方に注意を向けさせます。リュックは肩にかけられたままか、そうではないか(膝に載せたか、床に置いたか)。患者さんの選択はその場-待合室-が持つ[気]のあり様にかかっており(場についての詳述は割愛します)、当然後者を良しとします。

 診療室に招じ入れられてからも同じことです。依然としてリュックは肩にあるか、そうではないか。個別性はありますが、少なくともリュックは肩からははずされ、膝に移すなり床に置くなりしている様子やしぐさが患者さんから伺えないようでは、対応する治療者としては失格であることを告げます。なぜならば、患者さんが椅子に座ってもなおリュックがまだ肩にあるようでは-患者さん自身の例外的な異常緊張状態を除き-日常的なレベルを超えた緊張感、もしくはリラックスはとてもできない雰囲気-場-を感じている証拠で、直截的に言って、患者さんがそのように感じる因はすべて治療者側にあり、治療者がかもし出す気がお粗末なことと(品性の鍛錬不足)、加えて和顔施(仏教で説く[無財の七施]の一つ)に代表される初対面での非言語的コミュニケーション能力の貧乏がなせる場面にほかならないからです。このようなコミュニケーションの初期段階における躓きは、以後の医療者・患者間の良好なコミュニケーション構築はいうに及ばず、ひいては治療の成果にも影響を及ぼすことを、やかましく伝えます。  

 さて、その後は、きっかけ-主訴を伺う-を作ってリュックの紐を解いてもらい、いよいよ中身(愁訴等のアイテム)を取り出して見せて-話して-もらう段階に入ります。ここでは自発的に患者さんが中身を取り出し、それに関連した心配事やら悩み事を自身の言葉でいかに物語ってくれるかがポイントになります。患者さん側に立って言い換えると、いかによく自分の話を聞いてくれるかがポイントになると言えます。最終的に取り出された中身は、患者さんと治療者の共同作業-対話-によって患者さんが納得できる文脈に沿って編集され、通常は推定診断をタイトルとした一遍の物語としてまとまりをもったものとなります。

 重要なことは、この間の対話(傾聴・促し)のやり取りの一つ一つが実はリュックの中身を一つ一つ減らして重さを軽く-できれば空に-していくことにつながること、つまり、医療面接は病感を軽減する効果をもった重要な医療行為であることを強調すると同時に、その効果の程は、臨床家としてもつべきしっかりとした医学知識の基盤の上に成り立つ「感性の豊かさ」に比例することも声高に教えます。

 以上のことをかいつまんだ話と、昨今の調査では、患者さんの医療機関に対する満足度の指標は、医療技術の水準を凌いで、いかに自分の話に耳を傾けてくれたかという医師を含む関係従事者の対応、つまり、医療の場におけるコミュニケーションの良否がダントツで高いという結果の紹介を添えて、ご住職にお話しをしたのです。

 傾聴してくださったご住職からは

 「うーん、なるほどね。ごもっともなお話です」と大きく頷いてくださいました。後日、この話を法話に取り入れているというありがたいお手紙をいただき、在家の世界では虚実を入れ替えた[実往虚帰]という四文字もありだなと、仏家としてのご理解とご賛同を賜ったと思っています。

 余談ながら、その後、虚実の往還は娑婆の常と考え、ゴロもそのほうがよさそうなので、勝手に[帰]を[還]に変え[実往虚還]と称し、使っています。

虚還という営為と臨床心理学

 ところで、虚は哲学的には超越的な心境を表す概念-「心的な道の体験-無の体得-の場(荘子)や悟達(ごたつ)(禅)の表現」(『岩波哲学・思想辞典』)-でもあれば、畢竟、虚とは無限大を含意していることになります。

 すなわち医療面接を通しての虚還とは、治療者が協同して患者さんから病感(患い感)というベールをはがしながら病態を明らかにし、今の病態が患者さんの人生にとってどのような意味をもっているかについてのポジティブな洞察と、終には生得的に内在する無限大の可能性-暗黙知-に気づくことを促す-それはほとんど無意識の次元で起こることであっても-大変重要な医療行為であるわけです。いわば、あはき治療の面目である自然治癒力を賦活するという治療効果を左右する、臨床上の要(かなめ)と言って差し支えありません。

 しかし、要と承知していても、その理論も実践も旧来の教育課程では教わらない(教える人がいなかった)分野であり、現在、あはき臨床の第一線で活躍されておられる治療家は、それぞれに自分の臨床で試行錯誤を繰り返しながら(その本筋は患者さんに教えてもらいながら)、自分流の要(客観的評価に耐えるかどうか不明のまま)を作ってこられたのが実情であろう思います。

 私もその中の一人です。西洋医学-通常医療-と東洋医学-主として鍼灸医学-の臨床に従事して半世紀余が過ぎました。後半は主として脳卒中後遺症患者さんのリハビリテーション医療(以下リハ医療と略)に携わる中で鍼灸医療を導入し、及ばずながら西とか東とかの垣根を越えて、何をしたら患者さんのメリットになるか-患者さん中心の医療-を考えた自分流の臨床を行ってきたつもりです(統合医療には普遍的な定式はなく個人のレベルで統合された形が一番実践的と思っています)。我が国における西欧的リハ医療の黎明期には、リハ医療は、治療行為が主目的な既存の医療分野からは、アフターケア的(後始末的な消極的)な見方と捉え方が大勢でした。しかし、社会復帰-人間として人間らしい社会生活者の再獲得-を理念とし、その理念を目的化する実践的なリハ医療では、残された-現存する-心身の資源をいかに活用・活性化するかという、まさに積極的なアプローチの実践と展開が求められます。

 ただし、その実践と展開の結果を成功に導くには、大前提として(キーポイントとなる)患者さんの前向きな諦観-自己の存在に対して想う人間としての使命感-と自身がもつ生得的な可能性に対する気づきが絶対不可欠です。さて、私の臨床で、果たしてそのキーポイントをどのくらいの障碍者の方に提示し、気づきを与えることができたのであろうか。そのことを考えると、臨床年数の多寡とは比例せず常に忸怩たる思いが続きます。翻って思えば、探し求めたキーポイントを、患者さんと治療者の対話の場に明示する作業こそが[虚還]という営為であり、その営為の熟達を心がけながらまだ向上には道遠く、道暗しの感は尽きません。

 論語に『行不由径』-たとえ遠回りと思えてもバイパスなどに頼らず大道を堂々と行け-があります。遠い暗い道に歩の進みも鈍り、時に抜け道を探す卑しい心根を戒める座右の銘にしていますが、自力での向上には限界を感じていました。その道に一条の光と道標とを設えてくれるもの、それは臨床心理学ではないかと気づいたのは昨今のことではありません。が、自身の無精が最大の原因ですが、心理学そのものにも名状しがたい獏たる印象、主観的な印象で甚だ申し訳ないのですが、学派の隆衰の流れがつかめなかったり、学派間での論争めいた動きが目についたりして、有態に言えばとっつきにくさと、どの派のどの門をどのようにたたけばよいかとの逡巡と躊躇を繰り返し、時が流れてしまっていました。

 そこに雄図を企てる人が現れました。本書の編・主著者である奈良雅之教授その人です。教授は獏たる学系をすっきり整理してあはき臨床で実践に供せる心理学を体系化し、「あはき心理学」と命名して臨床心理学のなかに新しいジャンルを打ち建てる狼煙を上げられました。勇ましくもありがたいことです。最初にこの名称をお聞きしたときは略称と思っていましたが、[これで良いのです]とのご返事にいささか驚きました。しかし、あはき-あはき師-という伝統医療継承者がおり、国家認定職種でもあることの世間への浸透・普及の狙いもあるとお聞きして、教授の思い入れや誠に快と感じ納得した次第です。

新たな地平、あはき心理学

 本書は心理学入門に逡巡と躊躇を繰り返していた私にとって、臨床におけるコミュニケーションのあり方をもう一度問い直し、新たな地平を見出し、そこからさらに高みに向かう格好の指導書となりました。本書を手にとられた方の多くは、おそらくこの私の感想に共鳴されることと想像できます。

 臨床の最前線にいる治療家にとって臨床心理学の知識の習得とその実践は、自己の臨床を豊かにし、先に述べた臨床の要諦である患者さんとのコミュニケーションをより深める智慧を与えてくれることは必定です。

 また本書は、あはき師養成課程の修学の徒にとって、患者さんと治療家がともにする臨床という場はどんな場なのか、その峻厳さを理解し、その場にいることができる職種としての崇高さと、医療人としての使命感とを認識づける格好の教科書ともなります。

 臨床における患者さんとの良好なコミュニケーションは、相互の信頼関係の礎(いしずえ)であり、その礎を築くための治療家が励む努力は、すべて患者さんに還元することを肝に銘じ、怠ってはなりません。

 最後に私の臨床への想いを篭めた短歌を併載させていただいて巻頭言にかえさせていただきます。

 聴いて 観て 応えて触れて
 病む人の 
 患う心に 添う思いやり

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