週刊あはきワールドへようこそ! 2011年7月13日号 No.240

難問奇答集  其の六十八


五液中に気も挙げるのか?

〈奇答師〉神麹斎

【難問】  

『霊枢』の五癃津液別篇に「その液別れて五と為る」とあって、「天寒にして衣薄ければ、則ち溺(=尿)と気と為る」と言います。この気も数えなければ五つに為らないけれど、気を液と言うのは釈然としません。どういうことでしょうか。

【奇答】
 渋江抽斎の『霊枢講義』には、最後に多紀元簡の『霊枢識』の説、「気というものを考えてみるが、何の気のことかはっきりしない、馬(蒔)氏が失気とするのが、比較的良いのではないか」を引いている。抽斎自身の意見はないから、元簡の説に同意するということでしょう。馬蒔の説とは、「天寒なれば則ち腠理が閉じ、内の気と湿はともに行らなくなって、その水は下って膀胱に留まる、そうすると前の尿と後の気となると言うだけのことである。」 元簡の「失気」は「矢気」と書くべきだったかも知れない。矢は屎(くそ)に通じる。まあ、どちらにせよオナラのこと。

 ただし、諸注家が賛同しているかというとそうでもない。最近の中国の代表的な『内経』研究家だった天津の郭靄春教授は、呼気だとしている。篇の冒頭の「天寒にして衣薄ければ、則ち溺と気と為る」はそれでもよい。でも、後に再び出るときの「天寒なるときは則ち、気湿(『太素』は濇)にして行らざれば、水は下って膀胱に留まって、則ち溺と気に為る」はどうだろう。膀胱に溜まった水のせいで、呼気が白くなるなどはちょっと迂遠ではないか。

 そこで、ここに劉晨さんという人が、1992年に『吉林中医薬』に発表した『「天寒衣薄則為溺与気」中「気」義考析』という文章があります。結論としては、「気」は「涕」の誤字である。そう考える理由の一つは、『素問』宣明五気篇で五蔵の五気を言ううち、ここには肺の涕を欠くこと。もう一つは、涕は鼻から出て肺の液であって、肺は外を衛るものであるから、天寒あるいは衣薄きときに、肺が影響をうけて、涕(はなじる)を垂らすことは普通のことである。

 この文章、じつは『吉林中医薬』を直接見たわけではありません。2002年の夏に、太原における中華中医薬学会医古文分会に参加したときに、経由地の北京の新華書店で購入した『内経疑難解読』からの孫引きです。買っただけでろくに読んでなかったけれど、今回繙いてみると、最近の雑誌に紹介された新説がちょくちょく引用されている。案外、おもしろいかも知れない。

 ただ、「気」は「涕」の誤字であるという説、どうですか、そんなふうに間違えそうですか、形にしろ音にしろ。

 で、再び原文に立ち戻ってみると、水穀が口から入って、腸胃に輸送されて、「その液別れて五と為る」なんですね。別に「水穀が別れて五液と為る」じゃないんです。だったら五つの液である必要はないんじゃないか、尿と汗と涙と唾の四つの液と屎気だって、別にかまわないんじゃないか。オナラというのが一番、「水は下って膀胱に留まって」というのと合うような気がする。しかし、膀胱に水が溜まって冷えるとオナラが出ますかね。自分としては実感はない。そこらが不安です。

このコーナーでは、古典鍼灸医学に関する難問を募集します。応募された中から奇答に値すると神麹斎氏が判断した場合に限り、その難問を採用させていただきます。なお、採用された難問に対する奇答はこのコーナーで発表させていただきます。また、不採用となりました難問への回答はできかねますので、あらかじめご了承ください。「これは?」という難問をお待ちしていますので、奮ってご応募ください。

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