これはもう、「主外」でしょう。古来の注家に例外はありません。『太素』が失われていたのだから当然ですがね。関心は、腎の主外とは如何なることかにありました。張介賓の、腎は骨を主どって形体を成立させているものだからである、というのが一つ。形体ですから、機能に比して外なんでしょう。張志聡は、腎は津液を蔵して、空竅を潤すものだから。空竅だから外を主るだ、と言ったつもりなんでしょうが、これなら主水でも良さそうな気がします。
『霊枢』営衛生会篇の「衛は下焦に出る」に基づいて、だから外を衛る気の発源地は下焦の腎だという意見もありましたが、これは『太素』では「衛は上焦に出る」になっていて、現在ではそちらの説のほうが有力だから、無視します。
実はこの心は主、肺は相、肝は将、脾は衛という表現は、『霊枢』師伝篇にもあるんです。ただ、そちらでは「肝者主為将」というような書き方なんです。五癃津液別篇では、腎以外は、例えば「肝為之將」なんです。腎だけ五癃津液別篇でも「主外」と主の字があるのは、営衛生会篇の影響じゃないでしょうか。
それはともかくとして、営衛生会篇では「腎者主為外」に続いて、「これを遠聴せしめる」といい、耳を視ればその性を知ることができる、と言っています。遠くの物音を聴かせるのなら、それはやはり「外」を主るでしょう。
でも、ここにはまだ変なことがあって、郭靄春の校注語訳では、五癃津液別篇では『太素』津液が水に作るのは誤りだろうと言うのに、営衛生会篇では、外は水の誤字であって、草書が似ているのが原因である。だから『太素』津液によって水と改めるべきだと言います。これはダメです。そもそも『太素』津液は営衛生会篇ではないでしょう。営衛生会篇に相当する篇は『太素』では失われたと言うべきです。
だからまあ、「主外」で決まり、と言いたいところなんですが、ちょっとだけ不安な感じもします。これは単に感覚的なことなんで、まだまだ検証が必要なんですが、『霊枢』において同じような内容が登場したら、後にある篇のほうが本来のもので、前のほうは編集の意図に合わせて改変されたもの、なんじゃないか。とすると、五癃津液別篇、さらにはその原型である『太素』津液の文句のほうが正しい可能性もなくはない。その場合、「腎為之主水」と「腎は五液を主るものである」という説は符合するわけです。
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