週刊あはきワールドへようこそ! 2012年9月19日号 No.297

【新連載】つぼつぼ散歩 第1回:序章その1


つぼつぼ 事始め

つぼマニア 浦山玖蔵

 今週から、「つぼ」の話をすることになった。

 2006年に経穴部位の国際標準化が成し遂げられると、日本の学校教育に導入され、今年の国家試験にも出題された。鍼灸が新たな時代に突入したことが実感される出来事である。

 実際の臨床を視野に入れつつ、「つぼの歴史」とか、そこいらへんのウンチクをお話ができたらいいな、と思ったわけである。

1.皮切り

 私が「つぼ」に興味を持ったのは鍼灸学校の3年生の時からであった。

 鍼灸学校の1年生の時は、当時、講義においでになっていた東北大学の第1解剖学教室の助教授(今でいう准教授)のご好意で、興味を持った先輩の学生数人とともに本格的な解剖実習をさせていただいていたことがあった。先生のご指導のもと、目標の部位をチームで分担し、メスを使って真皮と結合組織の間を剥がし、そこからはピンセットだけを使って一摘みずつ結合組織を取り除く作業が中心となる。結合組織を取り除いた後の血管や神経、リンパ管の状況をできるだけ詳細にデッサンし、次にハサミで筋膜および筋肉を1層ごとに剥がして、またデッサンを繰り返すという作業である。デッサンには、引き出し線を入れてラテン語で解剖学名を記入し、刺繍糸で神経や血管の一つ一つにマーカーを付け、糸の色も絵に記入して行くのである。最初のうちは指示されるままに訳も分からずやっていたものが、だんだん要領が解ってくると同時に、さまざまな疑問が膨らみ、組織片を顕微鏡で観察したり、研究室に備えてある文献を調べたりしていた。こんなことが約半年あまり続いた。

 2年生の時には、先輩の学生が有志で行う『素問』の輪読会に参加させていただいた。ただ本を読んでいたわけではなく、『重校補注黄帝内経素問(1089年成立)』(経文のほかに王氷注と新校正注)および張志聡の『素問集注(1670年)』と丹波元簡の『素問識(1806年)』のコピーを渡され、これらを比較しながら読んでいくという本格的な読み会である。もちろん、句読点も記号もない、純然たる「白文」である。日本の鍼灸師の間で行われている『素問』の読書会の中でも、ここまでやっているところがどれほどあるだろうか。当時は、我々が極め付きの初心者だったこともあって、最も基本的で最も重要な「校勘(原典批判またはテキスト・クリティークともいう)」はさせてもらえなかった。「殴るわ蹴るわ(もちろん比喩としてだが)」とか「地獄の特訓」とか呼ばれていたほどにチョー厳しいご指導ではあったが、そのときの先生が、10数年後に私の奥さんになろうとなどは、当時は夢にも思わなかった。

 1年生の時に解剖の勉強の手解きをしていただき、2年生の時は『素問』の基礎を叩き込まれたが、かんじんの学校の授業の記憶はほとんどない。はっきりとした授業の記憶と言えば、当時、「経穴概論」担当教員であった樋口秀吉先生(現・経絡治療学会副会長、経絡治療学会東北支部長および社団法人宮城県鍼灸師会会長)の試験で、経穴名が書けず、4~5回も追試を受けるはめになったことぐらいであろうか。後に、私がWHO経穴部位国際標準化会議で日本側の代表として国際会議に参加することになった旨を報告しに行った時、「おまえがか?」という表情で苦笑をこらえていたように見えたのは、私の思い過ごしではなかったと思う。

 そんなこんなで、3年生の時には国家試験用の勉強くらいは少しばかりしていたものの、暇を持て余して、何か面白い遊びはないかと探していた。せっかく、解剖と古典の勉強の仕方の指導を受けながら何もしないでいるのは勿体ないと思い、いろいろ考えて思いついたのが古典のなかの解剖学であり、その主戦場としての経穴研究だったのである。

 初めて自分からテーマを決めて勉強し始めたものの、最初のうちは何をすれば良いのか見当が付かず、いろいろと試行錯誤の結果、つぼの名前を学校の図書室に備え付けてある辞書(諸橋轍次『大漢和辞典』、大修館書店1985年修訂)で調べてみることにした。

 最初に調べた経穴名は「太淵」である。その理由は『霊枢』でも、『甲乙経』でも最初に出てくる穴名が「太淵」―ただし、実際に登場する穴名は、正確には「大淵」と記述されている―であったからであり、それ以上の理由ではなかった。『諸橋漢和』は誤植が多いことでも有名だったので、用例に引用されている文字が正しいかを確認するため、引用元の原典を確認することが主な作業となった。もちろん、地方の一鍼灸学校が『四書五経』やら『諸子百家』やらを完備しているわけがない。入手しやすいものは購入するなどもしたが、多くは公立図書館などを利用するしかなかったので、意外に面倒な作業だった。

 さらには「太」と「大」の違いや、「淵」の用例や意味についても調べ始めた。段々収集資料が多くなってくると、関係ありそうなものとなさそうなものの見当が付いてくるのだが、とりあえず、集められるだけ集めることにした。ほかにも、医学関係の文献の中に「太淵」や関連用語があるかを調べ、収拾する日々が続いた。また、解剖学的にどのような特徴があるのかや、主治の症病名にどんな意味があるのかをも少しずつ調べ始めた。

 このような作業は卒業しても続けており、就職して数年後に、経絡治療学会の第7回学術大会(1992年、九州大会)で「太淵穴の位置について」という、我が人生で初めての学会発表(一般口演)に繋がったのである。この時は勤めていた病院から休暇をいただいて、私の解剖学の恩師の赴任先である岩手医科大学の解剖学教室まで出向き、「太淵」付近の解剖学的状況を撮影し、スライドを作成してから発表に臨んだが、本番では解剖写真のスライドを説明する時間が取れず、かろうじて最後に1枚挟み込むことができただけだった。

 ちなみに、『素問』で最初に出てくる穴名は、陰陽離合論篇の「至陰」である。

2.修行時代

 鍼灸学校を卒業後、仙台市内にある整形外科系病院の理学療法室に就職した私は、殺人的な激務の日々を過ごしていた。世はバブルの真っ只中である。ベッド数わずか36床だった病院が、1年後には88床に拡大し、診療科目も、内科・外科・耳鼻科などが増設されて総合病院化し、理学療法室には入院患者も含めて毎日150~200人ほどが殺到していた。これを鍼灸師のスタッフ3人でこなすわけで、毎日が残業であり、病棟の消灯時間(午後9時)との競争である。外来患者の約半数と入院患者の1/3が鍼灸の希望者で、しかも鍼灸が治療代無料の大サービスとくれば、さほど興味がない人でも「やってみようか」ということになるのである。この病院には足掛け5年ほど勤務したが、途中から過労ぎみで体調を崩し、ついには退職した。

 この間、月に1回東京まで出向いて、篠原孝市先生が立ち上げられたばかりの勉強会(日本鍼灸研究会)に参加させていただき、医学史や書誌学など古典文献の初歩的な勉強の仕方を教わっていたが、病院退職後、耳鼻科医院が経営する付属の鍼灸院(星状神経節刺鍼法をメインとする)に再就職した後も、勉強会への参加は続けていた。その後さらに数年間は、さまざまなチャレンジをしつつ臨床経験を積み重ね、仙台市内に開業を決めたのは、鍼灸学校を卒業してから9年目のことであった。

 つぼ研究の傍ら、中医学にも興味を持ち、独学で勉強も始めた。古典の研究には中国の文献が不可欠であるが、通信販売の中国の輸入図書を購入するついでに、興味の赴くままに様々な中医学書も購入するようになったのである。当時は石学敏老師の『醒脳開竅法』が日本に紹介されたばかりで、物珍しさも手伝って興味を持つ人も多かった。邦訳された中医学書はそれほど多くなく、あっても高額なものが多かったが、輸入図書はまだものすごく安かったのである。当時の日本では、まだ中医学がメジャーとまではいえなかったが、このころの中国では文化大革命が終結して老中医が名誉回復し、中西結合医学に代わって伝統的な弁証論治の医学が新たに台頭し始めたころであり、良書が陸続と出版されていたものである。なかでも、いわゆる「穴性学」が大流行していた。

3.開業のころ

 仙台市内のメインストリートのひとつである「定禅寺通り」の一角に鍼灸専門の治療院として「はり・きゅう移山堂」を開設したのは、もう15年以上も前のことである。「移山」とは、『列子』湯問篇に出てくる言葉で「北山の愚公、山を移す」の故事に由来する。詳細は省略するが、簡単にいうと「目的を持って気長に努力すれば山だって動く」的なことわざである。しかし、一昨年(2010年)の4月に「急性大動脈解離」を患って危うく死にかけ、治療院はやむなく閉鎖してしまったため「山は動かなかった」わけではあるが、まあ、気にしても仕方がないので、今後は「オマケ」の人生だと思って、無理をせずに気ままに過ごすことにした。

 開業当時の治療スタイルは、いわゆる「たい焼き療法」と揶揄される、経絡治療系の「浅刺多穴置鍼術」を中心にしたものであったが、古典理論や中医針灸はおろか、いわゆる西洋医学的治療までも折衷した無節操な治療ではあった。しかも、自分の研究成果や入手したさまざまな治療法などを、ほとんど日常的に試し続けていたので、あまり優秀な治療家とは言えなかったかもしれない。

 切皮置鍼を治療スタイルにすると、刺鍼手技は最小限にならざるを得ず、治療の工夫といえば取穴部位をどうアレンジするかということにかかってくるため、刺鍼の位置、すなわち「つぼ」は、必然的に非常に重要な要素となってくるのである。また、古典の経穴研究をしてみると、そのバリエーションの多さに驚かされる。

 同じ経穴は、一見すべて同じ部位であるように見えるが、古典文献を詳細に比較してみると、一つとしてすべてが同一部位の経穴であることはあり得ない。最初のうちは、単なる伝言ゲーム的な間違い(専門的には「伝写の誤り」という)で、集約すればすべて統一された部位が決定できると思っていたのであるが、現実はそう甘くはなかった。どうも、「つぼ」は時代によっても文献によっても、微妙に動いているらしいのである。単なる書き間違いの結果、たまたま表現が違ってしまったのではなく(もちろん、そのような例もたくさんあるが)、誰かがその都度、何らかの理由で、意図的に改変している可能性があるのである。改変された理由はさまざまであるが、時には流行する病気の変化により、時には道具の変化により、時には病理思想や治療思想の変化により、時には環境や民族的な文化的変化により、時には治療対象となる主体的な患者層の変化によって、微妙に改変されているのである。一言でいうと「つぼには歴史がある」ということである。

 そうなってくると、実際の臨床の中で、バリエーションの中のどのつぼが有効なのか確かめてみたくなる。しかし、きちんとしたランダム化比較試験を市井の一開業鍼灸師が行えるわけではないので、せいぜい、「個人的、主観的な経験」レベルの印象でしかないのであるが、それでも、圧痛点治療よりは古典の条文を正確に解読、シミュレーションして使用する経穴のほうが、圧倒的に効果があるような気がしたものである。いわゆるトリガーポイント療法ならば、炎症症状がない原発的な筋肉のトラブル(コリ感や運動痛)に対しては、一時的な効果は確かにあるようにも思えるが、それ以外の圧痛を対象にしたもので効果が認められるものは、歯肉炎や歯周病、あるいは抜歯後の環境改善などの口腔内のトラブルに限られるように思えるのである。ただし、なるべく正確に古典文献のシミュレーションをした結果、たまたまそこに「つぼ」的反応(それが皮膚レベルか、結合組織レベルか、筋肉レベルかで微妙に異なるが)があった場合には、それなりの結果には繋がりやすいとは思われる。しかし、これはあくまで十分条件にしか過ぎず、絶対的な必要条件ではないというのが、私の拙い臨床経験および研究成果としての、現段階での結論である。

 こんな研究生活(および臨床生活)を送っていたが、少しずつ成果が生まれ始めたころ、『鍼灸甲乙経』の研究に特化した形で原稿を書き始めた。ある程度たまってきたものの、どこに発表してよいかも分からなかったし、まったくの独学だったので個人で発表する勇気が、まだ持てなかった。そこで、所属する経絡治療学会の東北支部にその原稿を持ち込んだところ、有志による『鍼灸甲乙経』巻三の勉強会をすることになり、その勉強会の名前で『経絡治療』誌(経絡治療学会の学会誌)に連載してもらえることになった(題名は「丙巻指月―『甲乙経』巻之三の研究―」という)。原稿は全て私の執筆であったが、その勉強会で行っていたことは事実上の校勘資料の収集作業と取穴法の実験場だったので、私自身も非常に啓発されるものであった。やはり、古典研究は「校勘に始まり、校勘に終わる」ものであることを思い知らされたと同時に、実際の人間に取穴し、刺鍼(あるいは施灸)してみて初めて理解できるものであるということも実感できた。

4.WHO経穴部位国際標準化会議

 学会誌『経絡治療』への連載は、古典文献を正確に解剖学的部位に変換すると、従来の経穴とはほとんどが違う部位になるという、きわめてセンセーショナルな内容と自負していたのだが、まったく反響がなかった。

 それは、考えてみれば当然のことであった。臨床家の多くはグルーブ感やライブ感の中で「つぼ」のリアリティを追求するものである。つまり、正確な「つぼ」を取穴することより、より効きそうな反応のある部位に施術したがるものだし、そのほうが患者さんへのウケも良いので、「つぼ」の正確な位置についてはまったくと言ってよいほどに興味を示さないのが一般的であるといえる。優れた臨床家が多く集まっている経絡治療学会だからこそ、古典派鍼灸の総本山的学会でありながら、本格的な古典文献の研究に対しては興味を持ってもらえないという、きわめて皮肉な現象を体験することになったわけである。

 というわけで、支持の声もなければ批判の声もなかったので、連載開始から数年たったころに、内容を少しバージョンアップした『私家版』(PC原稿のコピーを束ねただけの冊子)を作り、経絡治療学会以外の古典を研究しておられる医学史や文献学の諸先生に、折を見て配って回っていた。

 それでも特に反響らしきものもなかったが、私が経穴の古典の研究をしていることは伝わったらしい事件が、突然舞い込んできた。

 2004年の3月1日のことである。その日は朝からいつになく患者が多く、せっせと治療を続けていたが、お昼ごろになって1本の電話が掛かってきた。電話の主は、当時全日本鍼灸学会の副会長をしておられた矢野忠先生であった。内容は、一介の開業鍼灸師である私にWHOの国際会議に日本側代表の一人として参加してほしいということであった。よく考えもせずに二つ返事で安請け合いをしてしまったが、すぐに2週間後に行われる会議のために北京に飛んでほしいといわれ、その重大さがやっと身にしみたのだった。パスポートの期限が切れていた私は、慌てて手続きをしなければならなかったが、なんとか無事に任務を果たすことができた。

 なぜ私のようなものに白羽の矢が立ったのかと矢野先生に伺ったところ、日本内経医学会会長の宮川浩也先生や和方鍼灸研究会代表の長野仁先生からご紹介いただいたもののようである。確かに、両氏には拙稿を進呈させていただいていたので、それが評価されたことがきっかけであったことが分かったのである。
 その翌月には「第二次日本経穴委員会」が発足し、委員長推薦で作業部会に参画させていただき、経穴部位の国際標準化に微力ながら貢献できた。その第二次日本経穴委員会も本年(2012年)3月をもってその役割を終えて発展的解散となり、新組織に引き継がれたことで、少し時間に余裕ができた私は、こうして好き勝手な駄文を書き綴ることができるようになったわけである。

 顧みれば、つぼ研究を志してから、25年もたっていたことになる。いろんなことがあったが、あっという間であった。だれも興味を持たないようなことでも、四半世紀も続けているとそれなりに箔が付いてくるし、だれも興味を持たなかったからこそ、艱難辛苦の努力なんぞしなくても趣味の延長線上で何とかやれてきたのだとも思う。

 研究活動を目指す人にとっては、「つぼ」はさまざまな意味でこれからも大変「おいしい」分野だと私個人は思っている。

 さて、2006年の秋に、「WHO/WPRO経穴部位国際標準化公式会議(つくば会議)」が行われて正式に標準経穴が確定し、翌2007年にはWHO西太平洋事務局(フィリピン)から『WHO標準経穴(英語公式版)』が出版された。2009年にはその日本語訳も登場し、2010年にはハングル版、昨年には中国語版も出て、当初の予定だった4カ国語のバージョンが揃ったことになる。

 これまで、「つぼ」の位置がちゃんと決まっていないままで国家試験まで行われていたということは、よく考えてみると信じがたい暴挙であったはずである。事実、それ以前の東洋療法学校協会と理療科教員連盟の教科書を見比べてみると、読みや部位の表現が微妙に違ったり、どう解釈しても位置が異なっているとしか考えられない経穴も少数ながら存在していた。どちらも、何を根拠としているかの説明もなければ、何に効くとも書いていないので、善し悪しの評価もしようがない状態だったのである。

 WHO標準経穴であっても、その根拠においては万全とはいえない状態ではあるものの、『詳解・経穴部位完全ガイド―古典からWHO標準へ―』(第二次日本経穴委員会編;医歯薬出版2009年刊)を参照していただければ、その根拠については一応のご理解をいただけるものと思う。私はこの本に『不完全ガイド』などという不届きなあだ名をつけて呼んでいたので、作業部会の仲間たちからは冷ややかな目で見られていた。なぜ「不完全」なのかは、今後、このシリーズを読み進んでいただければ、その概要はお解りいただけると思う。

5.近況など

 7年前に、私の母校でもある、仙台市内にある老舗の鍼灸学校に新設された教員養成課程に招聘され、専任教員として現在も勤務している。私自身は教員資格がないが、教員養成課程では研究実績が評価の対象となる。この招聘も、臨床経験はもちろん、WHO標準経穴における一連の活動と、長年の「つぼ」研究が評価されたものであるらしい。

 病気で治療院を閉鎖しなければならなくなる前は治療院と掛け持ちで行っていたが、結果論ではあるが、病気の背景にはこの「二足の草鞋(わらじ)」状態による多少の無理も関係したのかもしれない。病後の一時期を除けば、とりあえず授業に支障なく勤務できているし、周囲にご迷惑をお掛けするようなことは、今後もなさそうである。

 教員養成課程では、講義としては主に中医学的な基礎を教えているが、臨床実習になると本業ともいうべき経絡治療系の臨床方式を教えている。経絡治療系の臨床方式を教える先生はほかにもいるので、本音としては中医学の臨床方式を教えたいのであるが、臨床の前提となるべき基礎知識の全容を教えるには、内容があまりにも多過ぎて、少なくとも私の能力では4~5年分は掛かってしまいそうである。したがって、2年課程の中での、私が担当するほんの数コマ分では、蔵象学・病因病機学・診断学・弁証学・経絡腧穴学の概要を教えるのがやっとのことで、かんじんの鑑別診断や臨床各論、それに穴性学や鍼灸処方学・鍼灸手技学なども教えないままでは、臨床実習に中医学を持ち込むなんて無謀なことが、できようはずもない。教員養成課程を持つ学校のなかには、中医学的な臨床方式を行っているところもあると聞くが、どのようなカリキュラムでどのようなテキストを使って実践しているものなのか、存じよりの読者諸氏にはぜひご教示願いたいものである。

 昨年から授業時間が少し増えたので「経絡・経穴概論」に対応するコマを設けたが、具体的に取穴させてみると非常に危うい学生が多いことが分かった。取穴のみならず、取穴部分に当たる筋肉の名称もはっきりせず、当該筋肉の支配神経における椎骨レベルは答えられるのに、その筋肉が実際にどこにあり、どのような機能を果たすのかを明確に示すことができないのである。おそらく、このような現象はウチの学校だけではないのではないだろうか。

 「経絡・経穴概論」が機能解剖と連動していなければ臨床実践の役に立たないことは明白であろう。そのために各経穴には解剖学的指標が詳しく記載されているわけである。それくらいの基礎知識は、一通りは持ち合わせてもらいたいものである。

 とは言うものの、本分ともいうべき学校の勉強はそっちのけで、好きなことばかりやっていたおかげで、なんとかギリギリで卒業できたくらいの私と比べると、たいていの学生は優秀であるといわざるを得ない。

 現在学生の方も、卒業されて久しい方も、夢と勇気と情熱と野心を抱いて鍼灸ライフをエンジョイしていることを願う次第であるが、その一つの要素として「つぼ」や拙稿が何らかの形でお役にたてれば、望外の喜びである。

 ただ一つお断りしておきたいことは、今回から始まる一連のお話における「つぼ」のイメージは、一般常識とかけ離れていて、読む人によっては異端邪説のオンパレードに見えるであろうことである。特にこれから国家試験に臨む学生さんにとっては、「百害あって一利なし」という諺を地でいく内容となること請け合いであるので、ここでのネタを学校の経穴の先生に振って困らせたり、あるいは、先生が授業のネタにして学生さんを混乱させたりすることだけはないように、お願いしたいものである。

 当分は隔週ペースで連載していく予定であるが、先のことは未定である。次回は、取穴には欠かせない「つぼ」の起源の話をしようと思う。

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