2013年10月9日号 No.348

■鍼灸マッサージボランティア活動報告


「フクシマ」から「福島」へ

改めて胸に刻んだ「忘れないでください」という言葉 

災害鍼灸マッサージプロジェクト元代表 三輪正敬(圓観)

 分厚い。農民の手だ。一升瓶が空になりかけた頃に気づき、しばし見とれた。

 「ずっと農業やってきたから。政治の世界に入る前はタコもあって、もっと固かったんだけどな」

 2011年、地震と津波に加え、原発事故によりバラバラにされた町の陣頭指揮をとり、反原発を掲げ、米国のタイム誌が「世界で最も影響力のある100人」の一人に選んだ南相馬の桜井勝延市長は、お猪口代わりの湯飲み茶碗を置いて、そう教えてくれた。

ご縁を頂き「フクシマ」へ

 この秋、福島県の南相馬市を訪れた。

 宮城で被災地支援を行っているときから「フクシマ」は気になっており、ご縁を頂く機会があればいつか、と思っていた。そこに、災害鍼灸マッサージプロジェクト(以下災プロ)を取り上げた新聞記事を見た方から声をかけていただいたのだ。災プロのスタッフだった数名を中心とした鍼灸師仲間とともに、東京の自宅から6時間。宮城県へ行くより時間がかかるのは、沿岸部を通る常磐道が不通のため、内陸の東北道を降りてからひたすら一般道を走るからだ。

 往路、東北道の二本松ICを降り、清々しい秋晴れの空の下、線量計の数値を確認しながら山道を進む。途中、全村避難の飯館村を通過する際に1マイクロシーベルト/時(μSv/h)をわずかに超えたものの、到着した南相馬市各所や、検問の先の浪江町でも、訪れた場所は全て1マイクロシーベルト/時(μSv/h)未満。市内の小学校にいたっては、東京と変わらない空間線量だった。

 町に着くと、宿舎である「ビジネスホテル六角」に荷物を下ろした。震災直後、原発から20㎞圏の警戒区域からわずか50m外側に位置し、全国から集まる支援物資の民間拠点、作業員たちの宿泊場所となっていた宿である。東北道の事故の影響で到着が遅れていたため、休む間もなくA仮設住宅の集会所へ、治療活動のために移動した。

 仮設集会所に着いてからの手順は、宮城での時と変わらない。


仮設集会所の中、マスカーで急造した個室
 10日前から告知されていた会場には、すでに希望される方々がちらほらと待っていてくださった。重篤疾患発見時など、何かあった時の対応をあらかじめお願いしておいた地元の医療機関の連絡先を再確認し、プライバシー確保のためのマスカーで仮設集会所の中にいくつかの個室を急造、カルテと血圧計と体温計を準備して、治療活動を開始した。

まざまざと感じた放射能の存在

 2日間の治療活動、合計4時間半の間に鍼灸師4~5名+事務1名で診た患者さんはのべ35名。平均年齢は70.2歳と高齢の方が多く、主訴は、肩こり、腰痛、膝の痛み、背部痛、足のしびれ、頭痛、首の痛みなど整形外科的な訴えがほとんどで、併せて軽い不眠を訴える方が数名いらした。

 ここまでは宮城の仮設での治療時とさほど変わらない。が、患者さんの話してくれる内容はちょっと違っていた。

 「一緒に暮らしていた娘一家が避難してしまい、孫に会えない」という。また、大切にしてきた田畑も、津波の被害を受けていないのに荒れ放題だ。いずれも放射能の影響である。津波で大切な人を失った上に、思い出の土地に帰ることもできないばかりか、誇りを持っていた仕事に戻ることもできず、家族は遠く分断され、家庭内での役割も失った。

 もちろん、それぞれの悲しみや苦しみを単純に比較することはできない。だが、宮城で見聞きした悲しい津波被害の上に、さらに重たい石のように乗っかった放射能の存在を、まざまざと感じた。

放射能は生活を、そしてコミュニティを破壊した

 放射能の影響は、翌日訪れた酪農家Bさんのお話からも伺えた。

 原発の爆発後、避難指示の出る中でBさんは、屋根のある牛舎に牛たちを集めて家を後にした。解き放ってしまっては周囲の農家に迷惑がかかる。近隣への配慮ゆえの選択だった。それに、そもそも1週間ほどで帰宅するつもりだったのだ。


かじられて細くなっていた木製の柱
 しかし、1カ月を過ぎても自宅へ帰ることはできなかった。ずいぶん経ってから帰宅して牛舎を開けると、家族同様に育てていた牛たちが、一頭を除き、全て餓死していた。飢えの苦しみの中で半狂乱だったのだろう、木製の柱がかじられて細くなっていた。

 残った一頭は、災禍の中生まれ、母の死骸の乳を吸って生き延びた赤ん坊である。今でこそ冷静に語るBさんだが、今の新しい牛が来る前は、牛のぬいぐるみを見ても涙が溢れたと聞く。今の牛とて試験用に委託されたものであり、放射線は基準値内であるが、乳も肉も出荷できない。その上、輸入するエサ代は、自腹ではこれ以上賄えないそうだ。

 Bさんはまた、「金が人を変えた」とも言う。慰謝料という金だ。よくよく考えれば、見通しの立たない今後の生活のために貯金することもできるお金だが、パチンコ屋が流行り、ちょっと値段の高い車が増えたそうだ。

 心理学者のフロイトは「人生を生きるのに必要なことは?」と記者に聞かれた時、「愛することと働くことだ」と即答したと言う。

 震災で愛するものを失った上、誇りを持って打ち込んでいた仕事を奪われたところに、慰謝料が転がり込む。自分がこの立場だったら、転がり込んだそのお金を“きちんと”活用することができただろうか。

 また、「農業や酪農に関する知識や技術の点で年長者は尊敬されていたが、一人頭いくらで同額のお金の入って来るようになった今、若い人が横柄になってしまった。除染作業は低賃金だし、そりゃ、働くのがばからしいよな」とも話す。コミュニティが破壊されていく様子が見て取れる。

 ただ、「お金はいらない。自分の力で前へ進まないと」と言うBさんのように強い人ばかりではない。実際に“降ってくる”お金がなければ生きていけない人もいる。事情は個々により、事実は一人ひとりの生活の数だけある。

現地で得た自戒の念

 これまでの被災地に対する対策は、ある病気に対して一律の処方を行う西洋医学のようだ。皆が一律に避難し、困窮していた時期はある程度奏功した。しかし、個々の状況が多様になり、差異が広がりつつある今、本当に必要なのは、一人ひとりの体に合わせてツボを選び、鍼の深さを変える東洋医学のような対策なのだろう。

 そんなことを考え、Bさんの話を反芻しながら、今度は浪江町に入った。検問を抜け、原発から6㎞ほどの、津波被害を受けた沿岸地域。空間占領は0.28マイクロシーベルト/時(μSv/h)と低い。しかし、車は田んぼに突き刺さり、船も畑に横たわっている。20㎞圏内であるここのガレキは、線量の高低にかかわらず圏外運び出し禁止という制限により処理されず、集められて高く積まれたまま。転がった三輪車に、会ったこともない小さな子どもの面影を見て、誰かの愛用品だったであろうガレキたちの、土に帰ることもできない無念さを思った。

 土を用いずに作物を作る試みも、市では始まっていた。

 次に訪れたアグリパークでは、太陽光発電によって作られた電気により、外気から完全に遮断されたドーム型の工場の中でレタスを生産している。風評被害を克服し、雇用を創出し、子供たちに自然エネルギーの活用方法を学習してもらうという、何拍子も揃った施設だ。素晴らしい。素晴らしいが、どこかに違和感を覚えた。土を離れて、はたして生きていけるのだろうか。

 鍼灸師が学校で学ぶ教科書に必ず書いてある、世界を木・火・土・金・水の5つの要素に分けて考える五行説でも、水と金は地中から湧き出で、木と火は地上に生え出でる様子からもわかるように、土は中心を意味する。その土が抜け落ちているのだ。

 子供たちが太陽の恵みを学ぶのに必要なのが、お日さまの照りつけた土のにおいのする畑ではなく、黒いソーラーパネルと白いドームとは。

 しかし、私の感じた違和感は、風評被害に苦しむこの土地においては役に立たない理想論と、すぐに思い及んだ。

 戦前戦中と自由思想の立場をとった山本有三が、1923(大正12)年の関東大震災から2カ月後の随筆『大地』の中でこう書いている。

 「あるものは土をのろい、あるものは遠く逃れようとした。しかし大地を見捨ててどこへ行こうとするのであるか」

 現在も夜間の立ち入りが禁止されている小高区、つぶれかけた家の脇で、小さな畑に黙々と鍬を下す老夫婦の姿が目に焼き付いた。

 少なくとも南相馬市に住む人々は、自らの立つ大地を見捨てず、実直に、あるいは工夫を重ねてそこで生きていこうとしている。外部から少し足を踏み入れただけの自分が安易に理解できるものなど何もないと、改めて自戒した。

「フクシマ」から「福島」へ


南相馬の桜井勝延市長を囲んで(左から5人目が
桜井市長、一番右が著者)
 「かびくさい座布団ってのがいいなあ」と、私の鍼を受けながら桜井市長がつぶやく。「ビジネスホテル六角」の板ばりの床の上、布団代わりに数枚の座布団を敷いての治療だ。そこから次々に、現在までマラソンランナーとして自己の弱さと向き合ってきたこと、宮澤賢治の弟子と思って勉強した岩手大学時代などを語ってくれた。鍼などおろさなくとも、自分で自分を自然に整えてしまうだろう身体。ブレのない、土の人である。このような人が中心にいれば、きっと町は再生を続けていく、と感じさせられた。

 相馬地域には、野馬追という、1000年を超える歴史を持つ祭事がある。1000年に一度の津波に襲われた後の2011年夏も、この祭りは催された。連綿と続く人間の営みと、それを受け継ぎ、放射能をも受け止めてこの地に暮らす方々に深い敬意を覚えつつ、南相馬市を後にした。

 放射線が人体にどのような害を及ぼすのか、震災から2年半を経過した今、医療関係者であれば、ある程度の知識は持っているであろう。そして、一度人を決めつけるとなかなかその相手を再評価することが難しいように、人間の心理が作り上げるイメージの力は強固である。

 しかし、状況は日々変化していく。今ほど、メディアを読み解く力が個々人に求められるようになった時代はない。情報は溢れ、キーボードをちょっと叩けば“答え”に行きつける。ただ、何かを本当に“理解”できるとすれば、それは自分の体で体験したことだけではないだろうか。

 帰宅した私にとって、「フクシマ」は「福島」へと変わった。現地に、顔の浮かぶ人がいる。ありがたい体験である。

 私の治療院にいらっしゃる患者さんに、福島の会津出身の方がいた。南相馬の話をしたところ、「大学時代に遊びに行っていた浜通りの海の家なんかがなくなったと思うと足を運ぶ気になれなかったが、こんど楢葉町へ行くことにした」とのこと。

治療活動に訪れた仮設住宅の前で
思いが深ければこそ足の向かない人もあるだろう。関わる時期は人それぞれである。宮城県で多く頂いた「忘れないでください」という言葉を、改めて胸に刻んだ。

 末尾になったが、初対面の鍼灸師たちのために時間を割き、お話をしてくださった南相馬市の方々、同行してくださった仲間たちへ深く感謝申し上げる。


◎災害鍼灸マッサージプロジェクトホームページ→http://sinkyu-sos.jimdo.com/

(参考文献)
「放射能を背負って」山岡淳一郎 朝日新聞出版
「闘う市長」桜井勝延、開沼博 徳間書店 
「山本有三全集 10巻」新潮社
南相馬ソーラー・アグリパーク http://minamisoma-solaragripark.com/


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