週刊あはきワールド 2018年2月14日号 No.557

随想

Subcultural Acupuncture (その35)

~鍼灸はアートだ!~

Body & Soul 箕輪政博 


◎その34 宗教と鍼灸3
◎その33 宗教と鍼灸2
◎その32 宗教と鍼灸1
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1.想起

 「EBM」が叫ばれて久しい。世界は「科学的証拠」で成り立ち、それは経済支配の土台になり、人類を縛り上げ、あたかも文明の規範として振る舞っている。「科学的」とは仮説に基づく実験によって再現性を検証することである。皆が忘れてしまった、あのSTAP細胞は実験で再現できなかったので、科学の場から退場させられた。社会における科学の目的とは、汎用的であって、誰にでも同じ結果を導くことができ、人類に貢献するもの、ことの創造である。自然科学の一分野である現代医学が世界を席巻し拡散し続ける理由はそこらにあるはずだ。

 アートとは、「個性的な流儀=芸を、巧みな技=術で人を魅了するもの」である。医学は医術ともいわれるが、現代医学は科学であるので、医療者の術者の個性的な面はなるべくそぎ落とした方がいい。特に衛生面や安全性にアート的な流儀は一切必要ない。科学に基づくマニュアルで誰にでも再現できる専門的な技術を粛々と実践すればいいのだ。















 鍼灸は東洋医学であり、医療の一端を担う、と教科書的に表現されることが多い。そういうポジティブなスタイルで教育・研究に望むのは大切な姿勢である。しかし、何度も託宣してきたように、法的制度的な裏打ちが乏しく、100年以上も膠着した半制度のもと自由診療をメインに生き抜いてきた、日本社会に漂流するこの現象は、果たして医学と言い切れるのか? 確かに、病んだ人間を鍼と灸で治療する行為は医療だが、どうも古典的で個人的な流儀を重んじ、いわゆる科学とはほど遠い印象がある。本連載「宗教と鍼灸」でも述べたとおり、どちらかといえば「タオイズム」がお似合いだ。無論、科学の勃興より東洋(鍼灸)医学の(さらには道教)歴史が長いので、歩み寄る必要はないともいえる。

 鍼灸のアート的な流儀について考えてみる。

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