週刊あはきワールド 2018年6月13日号 No.573

【新連載】生命に学ぶ鍼灸医学 第1話

学ぶ姿勢

~はじめに~

一元流鍼灸術代表 伴尚志 


■連載するに当たって

 この文章の目的は、鍼灸医学の基礎の解説をすることにあります。東洋医学的な鍼灸を、原理的に煮つめて以下の条項にまとめました。毎月順を追って送信することとなりますのでよろしくお願いします。
  1. 東洋医学的な鍼灸を探求した人々は、聖人を目指していました。その聖人とは超能力者ではなく、求道者のことです。
  2. 鍼灸治療の目標とは何でしょうか。その基本は、生命を調えることにあります。そこを見ることができるから、今を磨く養生を提言することができるわけです。
  3. 鍼灸医学は単なる症状とりのための技術ではありません。生を応援するための技術です。深い治病はその後についてくるものです。
  4. 診ることを磨くために弁証論治があります。時系列の問診をして生命の流れを診、四診をして今の状況を診、構造的に考えていくことによってその生命状況を見極めます。
 それでは第1話「学ぶ姿勢」についてお話しましょう。

■第1話「学ぶ姿勢」 はじめに

 『臓腑経絡学ノート』(藤本蓮風監修、北辰会出版部編集、谷口書店刊)の序文に私は、人間学として医学を捉えるべきであり、そのような角度から東洋医学を学ぶべきであると宣言しました。

 「医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とどうかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。

 東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれてきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのである。」(『臓腑経絡学ノート』1989年 北辰会出版部編 谷口書店刊)

 同じように、精神病理学者である木村敏は、機械的な時間ではない「生きられている時間」について整理を試みています。

 「すでに形成されて完了形で捉えられるようなかたちが「客観的時間」と呼ばれる観念的な「次元」の中に定位されるのに対して、つねに生成の途上にある生きたかたちは、それ自身とともに生命的時間を生み出す。かたちの生成する「いまここ」で「現在が現在自身を限定」し、アクチュアルな時間としての現在が生成する。現在の一瞬にほとばしっている時間とは、実は生命そのもののことである。それは外界の三次元につけ加わるような第四の「次元」などではない。

 物理の世界に時間はない。変化はあったとしても、時間は存在しない。太陽が西の空に沈んで一日という時間がたち、時計の針が一目盛り動いて一分という時間が進んだと思うのは、それを一人の生きた、そして死すべき人間が見ているからである。人間に死ぬということがないならば、つまり人間が生きているのでないならば、時間ということはありえない。変化を時間の相のもとに見るということもありえない。死の欲動、それは時間のことである。

 わたしたちを欲望させるもの、わたしたちに世界を享受させてくれるもの、わたしたちに死の恐怖をいだかせるものとしての時間、生命のかたち、かたちの生命、この「の」のところにのみ、そんな時間が流れている。」(木村敏著「生命のかたち/かたちの生命」229p:2005年第一刷)

 生は、「今ここに」生きられている時間と空間が与えられて始めて存在します。木村敏は、臨床と哲学を通じてこの確信を得、「生命哲学」の構築を目指しています。

 東洋には古くから「生命哲学」が存在しています。生きているということはどういうことなのかという問いとの格闘の歴史が記録されています。その中で最も有名な人物が、釈迦です。彼は生きるとはなにかという問いに明確な答えを見出しました。けれども、その答えは言葉にすることのできないものでした。

 なぜなら、言葉は二次的なものであり、言葉には一般常識が必ずまとわりついているためです。けれども、その常識的な言葉を用いなければ生の実体を表現できません。この矛盾を解決するため釈迦がとった方法は、譬喩(ひゆ)と、常識的な言葉の否定を言葉にすることでした。
 

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