週刊あはきワールド 2018年10月3日号 No.588

からだに触れる からだで触れる 第4回

「触れる/触れられる」ことの基盤となる体性感覚とその養成法

いやしの道協会会長 朽名宗観 


4.「触れる/触れられる」ことの基盤となる体性感覚とその養成法

 さて、何かに接触するような手の振る舞いとして、持つ、当てる、にぎる、さする、もむ、なでる、押す、たたく、掻く、抱く、かかえる、ひっぱる…と言った数々の動作があげられますが、これらすべてが「触れる」ことのヴァリエーションとしてとらえることもできます。からだは瞬時に場面に応じて適切な「触れ方」の調節を行っています。モノが対象であれば、ペンを持つとき、ドアのノブを握るとき、鞄を持つとき、ビールのジョッキの把っ手を握るとき、茶碗を手にとるとき、重い荷物を運ぶときなど、無数にあると言ってよい動きについてそれぞれにふさわしい加減をしています。さらには音楽家、画家、造形作家、書家、茶道家、武術家、職人ともなればそれぞれの扱う道具と素人には思いもよらないような繊細な交流をしながら、微妙な振る舞いを実現しています。その際、人とモノとの境界を超えて両者をつないでいる「何か」として想定すると便利なのが、「気」の概念です。道具が見事に活きたように働いているのは、それを扱っている者と道具が一体になっている、つまり気が人とモノとの間に濃厚に通い合っている状態と言えます。身近なところでは、箸で小さな豆を難なくつまめるのは、箸先にまで気が通っているからこそ可能になります。

 「触れる」対象が人となれば、パフォーマンスの調節は視覚からの情報や感情的な反応なども含めてより複雑さを増し、「手をにぎる」という動作ひとつとっても、恋人同士のとき、挨拶のために握手するとき、親が幼児を連れ歩くとき、病人を見舞うときではそれぞれニュアンスが違います。人が人に触れるという行為には、感情の交流が不可分と言ってよいほどに生じます。一般的には「接吻」が愛情の表現であり、「殴る」が憎しみや怒りの表現となり、相手にも同様の感情を惹起することになります。しかし、逆にマフィアが裏切り者を処刑する際に行うという「死の接吻」や親が愛情から子にやむなく手をあげなければならないという場合もあります。また、触れる側と触れられる側とが相通じる感情を抱いていれば問題はありませんが、それがなければ触れる側の振る舞いが触れられる側から無神経なもの、忌まわしいもの、あるいは心に届かないものとして拒まれたり、時にはセクハラとして受けとめられたりするようなことにもなりかねません。

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