週刊あはきワールド 2021年5月12日号 No.713

【新連載】空間の手触り・肌触り~〈気〉についてのあれこれ~(1)

〈気〉に〈気づく〉ことが〈活気〉をもたらす

いやしの道協会会長 朽名宗観 


●空間を満たす「何か」

 本稿では「気」に関するいくつかのことを「気」がつくままに記してみたいと思います。「空間の手ざわり・肌ざわり」というタイトルは、鍼灸学校時代の生理学の授業で皮膚感覚に関するレポートを書いた際のタイトルにしたものと同じです。教科書には皮膚感覚の受容器としてマイスナー小体、メルケル盤、ルフィニ終末、パチニ小体、温度受容器、高閾値機械受容器、ポリモダール侵害受容器などがあげられていますが、気はどの感覚受容器で感じられているのか、あるいはこうした解剖・生理学的に知られているものとは違った受容器が存在して感じとっているのかという思いがあって、選んだタイトルです。とは言え、あくまで生理学のレポートなのでその問題について詳しく触れられるような場でもなく、解き明かせるだけの見識があったわけでもないので、増永静人の皮膚感覚における二点弁別閾を用いた「生命共感」の説明、治療家の手の感覚を養うには、判別性の感覚をより鋭敏することではなく(違いを感じる感覚をより研ぎすますのではなく)、いのちといのちの共感を育むことが重要であるという逆説的な発想を引用し、気の感受が単に解剖・生理学的な受容器に留まるものではないだろうということを述べるに留まりました。

 しかし、空間を満たしている「何か」のうち、物理的にもっとも身近なものとしては空気がまずあげられますが、それは東洋医学的には適切な在り方をすれば真気的な働きをし、不順なものとなれば風、寒、湿、暑、燥の外邪となり、また空気感染は感染症の主立ったルートのひとつでもあります。また、その「何か」を雰囲気のような気配として捉えると、心理的な意味合いが強くなり、同じ「何か」に触れている人たちが必ずしも同じようには受けとめないということがしばしば起こります。われわれを取り囲む空間を満たしているさまざまな「何か」の様態はからだだけではなく、こころにも大きな影響を及ぼし、「空間の手ざわり、肌ざわり」とは興味の尽きないテーマです。この空間を満たしている「何か」を一語で言うとするならば、「気」がもっともふさわしいでしょう。

●気は分けられることを好まず、越境してゆくもの

 「気」の特徴のひとつとして、気体どうしが容易に混ざり合うように分類されることを好まない傾向がある、ということが指摘できます。気の三宝として知られる精・気・神にしても、精が陰分の気で主にからだの働きを支え、神が陽分の気で主に意識や精神の働きを支え、その間にグラデーションのように存在するのが狭義の気ということになりますが、そこにはっきりとした線引きはできないような性質のものです。真気、宗気、営気、衛気、臓気、経気などの分け方もありますが、気は体内をめぐっているわけでその存在する場所によって名前が変わるだけでこれも明確な分類とは言えません。気は陰陽論の陰と陽が固定的に二分されるものではないようにはっきりと分化できるものではありません。そのような性質があるからこそ、気が二元論を乗り越えるための橋渡し的な役割も担え、別個に存在するものをつなぐこともできるのです。

 からだとこころを媒介するものとして存在するのが気であることは端的な例と言えるでしょう。人と人とが出会うときに生じるのも気です。人が道具を自在にあつかうとき、つまり人とモノとが一体になったかのようなパフォーマンスが実現するときに両者を結ぶのも気です。

 画家の横山大観は絵を描く前に紙に気を通すということを言っています。棋士の坂田三吉は対局中に銀の駒を打ち間違えたとき、「銀が泣いている」と言いました。さらにもう一例をオイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』から引用します。

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