週刊あはきワールド 2021年8月18日号 No.726

全力で治す東西両医療 第55回

痹証の臨床推論

~痹証と診断するにあたって⑥~

 (1)石川家明(2)木村朗子(3)平岡遼 


◎第54回 痹証の臨床推論
       ~痹証と経絡病はどこが違う?⑤~
       (石川家明・木村朗子・平岡遼)
◎第53回 痹証の臨床推論
       ~痹証はやっぱりブレンドを見極める④~
       (石川家明・木村朗子・荒川和子・平岡遼)
◎第52回 痹証の臨床推論
       ~痹証の病因病機③~
       (石川家明・木村朗子・平岡遼)
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(1)石川家明:TOMOTOMO(友と共に学ぶ東西両医学研修の会)代表
(2)木村朗子:ともともクリニック院長
(3)平岡遼:ともともクリニックレジデント
 
 TOMOTOMOが創立されてから20年が経ち、ともともクリニックもこの8月で丸9年となりました。過疎地での鍼灸医療ボランティアで始まった会ですが、臨床実践を通して東洋両医学を学んでくれた医学生たちは合計380名余になりました。10~20年前にはあどけなさの残るも真摯な青年達でしたが、今では立派な医師になり、東西両医学が使える医療者として全国で活躍しています。

 このたび、彼らにより20周年を記念して、マンガ「19番目のカルテ」勉強会が立ち上がりました。同窓生の原作者を応援しながら、マンガで提示された症例を通して医を語り合う会です。みなさんもぜひ参加しませんか?(詳細は本編末尾に)

■症状の重さは関係なく、軽くても重くても痹証は痹証

平岡ある雑誌で、「まだ痹証のように重くはない」と言った表現がありましたが、痹証の定義に当てはめれば、重いから痹証、重くないなら痹証ではない、ということではないと思いますが、如何でしょうか?

石川痹証の定義というよりも、この場合は痹証の疾患概念と言った方がよろしいかと思います。病態生理から、つまり病因病機から痹証と診断できたら痹証であって、軽い重いは関係ありません。痹証は痹証です。

木村学生の頃から聞いていましたが、中国思考は博物学的で、平等的であり、その記述は百科事典的であるので、一つでも事象があればそれを採集分類してしまう傾向があると。「平等的な扱い」との表現が印象的で、しかも「病の軽重は問わない」と聞いた時は大変興味深く感じました。

平岡面白いですね。軽い症状も重い症状も平等的に扱っていることにも繋がる?

石川網羅的であればあるほど、百科事典的記載になり、「重み付け」は表現しにくくなります。

木村そうですね。教科書記述と臨床現場との違いみたいな関係ですね。ある疾患の症状をすべて書かないと「教科書」になりません。教科書は洩れなく書いてある。でも、初心者が読むと、どこに大切なポイントであるのかがわからなくなる。

平岡学生時代は、病気は教科書のすべての症状が出るもので、もっと分かりやすいのかと思っていました。卒業する頃にはそうではないことに気づきましたが、日常病でさえも、どこが症状のポイントだかわからないことがたくさんありました。確かに重み付けの差異ですね。

石川ええ、そうなのですが、中国思考として「平等的、網羅的、博物学的、百科事典的」の色彩が特徴的であるのではないかとの論説です。

木村軽重の重み付けは統計学的問題ですが、この場合は学問的態度としてその傾向があるかもしれないということですね。

平岡中国奥地の山に雪男の足跡があっても、パンダの足跡と一緒に分類してしまうのですね。(笑)

木村雪男の足跡はヒマラヤ山脈へ行ってもなかなか見つけられない事象ですが、パンダの足跡は上野の山へ行けばすぐ見つかる。確率が違いすぎる!

石川ごく稀に起きる事象も、起きた事実の方に重みがあるのですね。それは記録に値する。めったに起きないことも「起きた」わけですから。めったに起きないからといって、切り捨てない。そして、そのまとめ方が博物学の「分類」の仕方なのですが…

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